「幸せの行方」 その17 城崎温泉1
2018.11.07 (Wed)
● 城崎
京都駅に着くと幹事の職員が予約していた駅弁当を積み込み、
暫くすると飲み物と一緒に皆の席に配り始めた。
城崎には蟹を食べに行くので、
お昼のお弁当は但馬牛を中心としたものが用意されているらしい。
事務長が今回の責任者だが院長と副院長が来ていないからだろうか、
気の早い男性職員たちの座席では、
暗黙の了解で静かな宴会が始まっているようだった。
毎年恒例の慰安旅行が始まった。
大規模医療施設のため幾つかの班に分けての旅行となるが、
経費は各自の積立の他に、
福利厚生として病院からも多額の助成金が出ることもあり、
家族一同で参加するところも多い。
ハワイや韓国など外国まで足を延ばすこともあったが、
今年は蟹を食べに行こうと数年ぶりに城崎温泉に行くことになった。
三列シートのグリーン車はシートも広く、
薫を抱いている時も苦にはならなかったし、
幼い薫には時間的に少し永すぎる旅になるかもしれないと案じていたが、
いたって上機嫌で眠たくなると順子の胸元で大人しく眠っていてくれていた。
福知山駅を過ぎると、
山手の方に時折白いものが見えるようになり、
到着した城崎駅でも数日前に降ったのだろうか、
僅かだが道端に雪の残りを見ることができた。
迎えのバスに乗り柳の川沿いをゆっくりと走り、
木造の旅館の多い城崎では珍しい近代的なホテルに赴いた。
順子や義母たちなど、家族や友人たちと参加している人たちの階とは別に、
事務長を始め、
ひとりで参加している人たちは上の階にしてあるらしい。
とりあえず義母と光子の特別室で、一息入れることにした。
光子がお茶を入れてくれている。
屋根のある露天風呂にいつでも入れると、
前に泊まった時、母が甚く気に入った豪勢な部屋だ。
季節ではないのだが、庭先の緑もガラス越しに美しく映えている。
一日中薫を抱いていて疲れただろうからと、
暫く休むように言われてひとり自分の部屋に移った。
義母たちの部屋ほどではないが、
こちらも露天風呂のついた申し分のない和室である。
庭先の見える板間の籐の椅子に座り、順子は小さな息をひとつ吐いた。
義母や光子と談笑しているときも、薫と顔を見合わせ声をかけているときも、
車窓から遠い白いものが見える山並みを眺めているときも、
自分のこころが今そこにはないことが感じられた。
本当はここに居るはずもないあの人に、
狂おしいほどこころを包まれていることがわかっていたからだ。
数日前のお昼過ぎ、
ダイニングテーブルの上に置かれた携帯電話のランプが点滅した。
早い夕食の準備をしていてた順子は、
少し慌てながらも電話を手にするまでの僅かな時の間に、
その相手が誰なのか、わかったような気がした。
そして、案の定僅かな息遣いだけが届いた。
「あなたなのね。」
なぜだか、目頭が熱くなった。
誰にも言えずに我慢していたどうしようもない気持ちを、
やっと彼がわかってくれたような気がしたからなのだろうか。
いつもと同じように、
今年も山陰に撮影旅行に来ているとの話に驚きながら、
偶然にも数日後には、自分も城崎に行くことを伝えていた。
けれども、だからどうしたいとは言えなかった。
言っても仕方のないように思えた。
それでも自分の今の気持ちをわかってもらいたかったのだろうか。
逢えない時間が、
あの人への愛をこれまで以上に育んでいたことを知らされた時であった。
何の約束もしないままに、できないままに電話をきるしかなかった。
けれど、それが仕方のないことだと自分に言い聞かせたとき、
熱いものが頬を伝い流れた。